最後の授業 ぼくの命があるうちに

最後の授業 ぼくの命があるうちに

余命数ヶ月と宣告された著者が、
残される家族、仲間に送る最後の授業を中心に
まとめたもの。
定年退官する教授の最終講義とは比べ物にならないほど、
内容が詰まっています。
大学で研究をする同じ穴のムジナとして、読んでみた。
心に残った言葉は
著者が何かの障害(問題)にぶつかった時、
その障害をレンガの壁に例えてこう言ってました。

「レンガの壁がそのにあるのには、理由がある。僕達の行く手を阻むためにあるのではない。その壁の向こうにある”何か”を自分がどれほど真剣に望んでいるか、証明するチャンスを与えているのだ」と・・・。

いいことばかりではないさ、
でも次の扉をノックしよう。


賞の柩 (新潮文庫)

賞の柩 (新潮文庫)

199X年のノーベル賞医学・生理学賞は
ある一人の科学者に決まった。
共同研究が当たり前の時代、
複数の同時受賞ではなく、単独受賞。
しかし同じ研究分野には、受賞者以外に3人の著名な研究者がいた。
その3人の相次ぐ死。その裏にある陰謀とは、、、。


ストーリーやトリックは物足りないが、
なんせ最近話題のノーベル賞に加え、
自分も学術研究分野に身を置く人間なので楽しく読めた。
内容以上に、興味深い記述も多い。

研究は才能ではない。粘りだよ。


指導する学生を前に教授が言う。

球の飛んでこないところでいくらバットを振っていも駄目だよ。球の来そうなところにきみたちを連れていくのがぼくの任務だ。しかし、ぼくはボールがどっちから飛んでくるかは知らない。それを見極めるのはきみたちだ。そしてバットを振るのもきみたちだ。


研究室運営について

研究室運営は街工場に似ている。最初は手元にある粗末な実験器具をフルに使う。出来上がった論文を元手にして新たな研究助成金を獲得する。それを資金にして少し大きな実験装置を購入する。学会で名が知られるようになると助成金はさらにおりやすくなった。若い研究者も集まった。研究室から出す論文の数と比例して、研究費は雪ダルマ式に増え続ける。


研究について

運営が街工場なら、研究は養蜂家の要領だ。花の咲くところに巣箱を運び、蜂を解き放つ。花のありかを探すのがトップの仕事だ。最初は自分の足で探し回ったが、学会での地位が上がるにつれて、いながらに情報がもたらされるようになった。学術誌の編集委員として、各国から絶えず生の投稿論文が送られてくる。世界中の研究者が血のにじむ思いで発見した花園に、こちらは苦もなくたどりつけた。


最後の文章が意味するところはこういうことだ。


我々研究者は研究結果をまとめ論文として投稿する。
投稿された論文は、内容を厳しく審査され、
合格すれば無事掲載される。
そして掲載されて初めて、その成果の第一発見者となる。
そうならなければ、いくら口で言ったところで、
認めてはもらえない。論より証拠なのだ。


その審査をする人間もしくは雑誌の編集委員は、
投稿された論文の研究内容の専門家たちばかり。
必然的に、研究の競争相手となる。
つまり、審査する論文を足止めし、
自ら研究内容を盗み取ることが可能なのだ。


多くの研究者は、そのような盗用はしない。
と、されている。
研究者の社会は非常にピュアな性善説に基づいている。
しかし、最近の研究成果を求める風潮の中、
果たしてそのような性善説が残されているか?
今の自分は大丈夫でも、将来切羽詰まったら、、、。


探偵ガリレオノーベル賞受賞で空前の理系ブーム。
一見、慎ましく純粋な研究生活であるが、、、
これ以上は語れない。