上の人間になる。
実力が上になることでも、
年齢が上になることでも、
経験が上になることでも、
なんせ、自分より上の人間が少なくなるに比例して、
行いを正してくれる助言が少なくなる。
上の立場を利用して、注意や助言を受けつけない横柄な態度をとっているからだろう。
30を過ぎたおっさんが、ピチピチの現役大学生と過ごしていると
つくづく痛感する。
若い人からも注意してもらえるよう、助言してもらえるよう
謙虚な態度でありたい。
昨日のすーのコメントを受けて、
年配の人が実力が付くほど謙虚であれ、というのは
そういうことなのだろう。
お寒い
今日は大変お寒い日でした。
雪もちらつく中、年度末の博士号に向けた発表会がありました。
内容も気温を反映してお寒いものでした。
人それぞれですが、それでも立派に博士。
おめでとうございます。
シマウマの縞、蝶の模様
シマウマの縞 蝶の模様 エボデボ革命が解き明かす生物デザインの起源
- 作者: ショーン・B・キャロル,渡辺政隆,経塚淳子
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2007/04/24
- メディア: 単行本
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いわゆるエボデボ研究に関する本。
これまでのエボデボ研究のもっとも大きな転換点は
ダーウィンの「種の起源」。
共通祖先から様々な形態に進化したという考えは、
今でもキリスト教圏では受け入れがたい真実。
近年のゲノム情報に基づく進化ゲノム学や、
しかし、遺伝子の機能解析法の発展による発生学への貢献により、
わずかなしかも共通のツールキット遺伝子が、
地球上の様々な生物の形態的多様性に寄与したことが明らかとなり、
ダーウィンの進化論が改めて正しいことを示した。
エボデボ研究の第一人者がわかりやすく解説してくれる。
進化や形態形成に興味のある人にはおすすめ。
反エクソシスト的な嫌悪
大相撲初場所。
謹慎処分明けの朝青龍に注目が集まる。
初日、豪快な上手投げで横綱の強さをアピール。
2日目、あっけなく突き落とされ、稽古不足をアピール。
気になったのは、観客の反応。
初日は、強い横綱が帰ってきたことを喜ぶ観客と唸る観客が半分くらいだったのに対し、
2日目は、観客のほとんどが大喜び。
外国人力士に国産力士が勝ったこと、
格下が格上を倒したこと、
そして、悪事をなしたものへの天罰がくだったことに対する喜び。
ざまーみろといわんばかりの盛り上がりに違和感を感じた。
いつのことだったか、読売新聞のコラムに
朝青龍についての記事があった。
少女が悪魔に取りつかれる映画「エクソシスト」が怖いのは、正しい主体(純真は少女)が間違ったことを行う(悪魔の言葉を話す)からだった。だが朝青龍問題では、おそらく多くの人がこれとは逆に「間違った主体(朝青龍)」が、正しいことをする(強い横綱でいる)と感じてしまった。それが僕らにやり切れなさと嫌悪を生み出す
これを反エクソシスト的な嫌悪感というらしい。
マスコミの煽り方も問題だが、
この嫌悪感を払拭するために、
少しでも落ち度があると、激しいバッシングを浴びせる。
また落ち度をしらみつぶしに探し出す。
これと同じことがボクシングの亀田兄弟にもいえるのだろう。
品格のない言動をもつものが強いボクシングをする。
そこに感じた嫌悪感が激しいバッシングにつながった。
大澤 真幸の
文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)
でも同じようなことが書かれている。
われわれと見かけの上で異なっている、というより誤っている者たちが、それでも、われわれの理念、われわれの価値観(とほぼ同じもの)を所有している、という捻れが、耐えがたいのだ。
身近なことでも同じような状況はいくらでもあることに気付く。
全然勉強してないのにテストでいい点を取ったり、
ぜんぜん実験をしていないのに、博士号をとったり、
「オレ様」と一緒の研究をしないといけなかったり。
そこには反エクソシスト的嫌悪感が渦巻いている。
しかしながら、
「間違った主体」を「間違っている」と決め付けるのもいかがなものか。
大相撲を見て感じた違和感はそこにある。
朝青龍にしても、亀田兄弟にしても
強くなるために多くの努力をし、多くのものを犠牲にしてきたかもしれない。
人知れず、勉強していたのかもしれない。
人知れず、実験していたのかもしれない。
人一倍、気を使っているのかもしれない。
かもしれない、かもしれない、かもしれない、、、。
フォローしすぎか。