反エクソシスト的な嫌悪

大相撲初場所
謹慎処分明けの朝青龍に注目が集まる。
初日、豪快な上手投げで横綱の強さをアピール。
2日目、あっけなく突き落とされ、稽古不足をアピール。
気になったのは、観客の反応。
初日は、強い横綱が帰ってきたことを喜ぶ観客と唸る観客が半分くらいだったのに対し、
2日目は、観客のほとんどが大喜び。
外国人力士に国産力士が勝ったこと、
格下が格上を倒したこと、
そして、悪事をなしたものへの天罰がくだったことに対する喜び。
ざまーみろといわんばかりの盛り上がりに違和感を感じた。


いつのことだったか、読売新聞のコラムに
朝青龍についての記事があった。

少女が悪魔に取りつかれる映画「エクソシスト」が怖いのは、正しい主体(純真は少女)が間違ったことを行う(悪魔の言葉を話す)からだった。だが朝青龍問題では、おそらく多くの人がこれとは逆に「間違った主体(朝青龍)」が、正しいことをする(強い横綱でいる)と感じてしまった。それが僕らにやり切れなさと嫌悪を生み出す

これを反エクソシスト的な嫌悪感というらしい。
マスコミの煽り方も問題だが、
この嫌悪感を払拭するために、
少しでも落ち度があると、激しいバッシングを浴びせる。
また落ち度をしらみつぶしに探し出す。


これと同じことがボクシングの亀田兄弟にもいえるのだろう。
品格のない言動をもつものが強いボクシングをする。
そこに感じた嫌悪感が激しいバッシングにつながった。
大澤 真幸の
文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)
でも同じようなことが書かれている。

われわれと見かけの上で異なっている、というより誤っている者たちが、それでも、われわれの理念、われわれの価値観(とほぼ同じもの)を所有している、という捻れが、耐えがたいのだ。

身近なことでも同じような状況はいくらでもあることに気付く。
全然勉強してないのにテストでいい点を取ったり、
ぜんぜん実験をしていないのに、博士号をとったり、
「オレ様」と一緒の研究をしないといけなかったり。
そこには反エクソシスト的嫌悪感が渦巻いている。


しかしながら、
「間違った主体」を「間違っている」と決め付けるのもいかがなものか。
大相撲を見て感じた違和感はそこにある。
朝青龍にしても、亀田兄弟にしても
強くなるために多くの努力をし、多くのものを犠牲にしてきたかもしれない。
人知れず、勉強していたのかもしれない。
人知れず、実験していたのかもしれない。
人一倍、気を使っているのかもしれない。
かもしれない、かもしれない、かもしれない、、、。


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