国家の品格

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)

話題になっていたので読んでみた。
字が大きいのでさくさく読める。
国際人として教育するために、
英語の早期教育を推進するのではなく
日本の歴史や分化に関する教育を充実すべき、
という点は賛同できる。
国際人として、外国人に期待する(される)ことは
英語力や日本語力ではなく、
自国の文化を紹介できる能力や文化の違いを意識できる能力でしょう。
日本は先進国といわれながら、
歴史認識や文化・教養レベルが低いということだろう。


本の中で触れている「卑怯」ということについて考えてみた。
最近の学生を見て、
「卑怯」ということを感じなくなってきているのではないか。
そもそも、どういうことが「卑怯」なのか知らないのではないか。
「卑怯」を教えるはずの、親や教師自体も知らないのではないか。


清書も出来上がっていないのに原稿を教員に預けて「ハイ、さよなら」とは
「卑怯」ではありませんか?
駅伝で襷を渡したら後は応援しないのでしょうか。


大掃除や圃場作業などの共同作業を用もないのにブッチするのは
「卑怯」ではありませんか?
使ってないからやらないのでしょうか?使ったところはやるのでしょうか?


電話が鳴っているのにコーヒーを淹れて無視するのは
「卑怯」ではありませんか?
教員だから学生に任せるということでしょうか?


自分の研究材料が育っているのに見に行きもせず、
水もやらずほったらかしでは
「卑怯」ではありませんか。
別に枯れてもいいのでしょうか?


誰にも、「やむを得ず」ということはあるでしょう。
だから日頃から自分の行動に注意深くあるべきなのではないでしょうか?
「またか」と思われたら、次から注意してくれる人がいなくなるでしょう。
それを、「認められている」と勘違いしていることも
注意すべきなのでしょうか?


とか、なんだかんだ偉そうなこといって、
こんなブログ上で愚痴るのは「卑怯」ではありませんか?
面と向かって言えないのはビビッているからでしょうか?
ハイ、そうです。
おあとがよろしいようで。